感覚というものは自分の中では確実に存在しているものであり、それは自分の中で言えば一番重要なものです。
自分自身が何かを感じればそれは存在するものであり、他人が分からなくても自分の中では存在しているもの。
「痛み」や「辛さ」、「苦しさ」というものは自分の中では確実に存在しているものであるけれどそれ自体は実体がなく他人には確実にわからないものである。
「重い雰囲気」
「心がざわざわする」
「なんだか気味が悪い」
全て自分の中には存在するものであり、現実には存在しないものでもある。
それだけ人は自分の感覚の中で生きているということだ。
それは自分の感覚と人の感覚が違えば違うほど、同じ現実で生きているにも関わらず、違う現実を生きているということになる。
自分は、「とても楽しい」と感じているものも他人からすれば「とても苦しい」というものかもしれない。
全ては自分の感覚であって人によって感じ方は様々だ。
同じものを見ても感じ方は違うのだから、現実がどういうものなのかということはあまり関係ないということでもある。
だって同じものを見てもそれだけ感じ方が違うのだから、現実が良いのか悪いのか、好きなのか嫌いなのか、ダメなのか良いのか、全ては自分の心や感覚が決めることであって他人の感じ方は何も関係のないことでもある。
自分が悪いと思えば現実がどうであれ悪いし、
他人が良いと言っても自分が悪いと感じればそれは悪いことになってしまう。
それは同じ現実に生きているようで、みんなそれぞれの現実で生きているのと同じだと言うことだ。
感じ方によってみんな違う現実を生きているのだから話が合わなくて当然だし、それぞれ価値観が違って当たり前だ。
感覚というものは何故か、
「自分の気持ちの問題だ」
「何かの気のせいだ」
というふうに「無いもの」という扱われ方をしているけれど、実際はそんな現実にあろうがなかろうが関係はないんだ。
だってあるかないかよりも自分の中でどう感じるかということの方がずっと重要なのだから。
感じた時点で自分の世界の中では確実に存在するものなのだから。
人の痛みなんて絶対わからない。同じように感じることは出来ないし、現実には存在しない。
だけど自分の痛みというのは確実に存在している。
それだけ感覚というのは自分の中で最も重要な現実だ。
自分の感覚を大事にしよう。
それは現実に存在しないものだけど、自分の中では最も存在感のあるものなのだから。
あとがき
自分の感覚や感じたものというのはそれだけ大切なものであり、確かに存在しているものです。
他人の痛みなんて絶対に分かりません。
しかし痛い人からすれば確実に存在しているものです。
「見えていないからそんな痛いわけがない」
そんなことを言う人はいないでしょう。
痛みは確かに本人からすれば存在するのです。
それだけ自分の感覚は他人とは関係なく、現実に見えているのか、存在しているのかと言う事は関係ないのです。
自分が痛いと思えば痛いのです。
それだけ現実よりも自分の感覚の方が大切だと言う事なのです。